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日本人の白
日本人は大昔から、白というものにフェティズムにも近いこだわりをもっていたらしい。
美学者の谷川渥氏は『白のフェティズムと「闇の理法」』というコラムの中で、16世紀に宣教師として日本を訪れたルイス・フロイスの著書をひもとき、当時の日本人、日本女性がいかに白粉(おしろい)に執着していたかについて述べている。
ヨーロッパでは、顔の化粧品や美顔料がはっきり見えるようでは、不手際とされている。日本の女性は白粉を重ねれば重ねるほど一層優美だと思っている。・・・・・ヨーロッパでは白粉一箱あれば一国全部の要を充たすに足りる。日本にはそれを積んだシナ人のソマ船が多数渡来するが、それでもまだ足りない。(岡田章雄訳)
現代では、日常において白粉を塗った女性を見る機会は少なくなってしまったが、京都の舞妓さんや歌舞伎役者といった伝統芸能などで垣間見ることができる。
日常的に日本古来の習俗や文化に触れることが少なくなってしまった我々のような一般的な日本人にとって、その白さは奇異なもの、一種独特なものとして映ってしまうのではないかと思うが、谷川氏はさらに谷崎潤一郎の小説『痴人の愛』や著作『陰翳礼讃』を引き合いにだし、日本人独特の、そして屈折したともいえる日本人の美意識を明らかにしている。
同じ白いのでも、西洋紙の白さと奉書や白唐紙の白さとは違ふ。西洋紙の肌は光線を撥ね返すやうな趣があるが、奉書や唐紙の肌は、柔かい初雪のように、ふっくらと光線を中で吸い取る。そうして手ざはりがしなやかであり、折つても畳んでも音を立てない。
一人々々に接近して見れば、西洋人より白い日本人があり、日本人より白い西洋人があるやうだけれども、その白さや黒さの工合が違ふ。・・・・・日本人のはどんなに白くとも、白い中に微かな翳りがある。・・・・・ちやうど清冽な水の底にある汚物が、高い所から見下ろすとよく分かるように、それが分かる。
日本人にとっての白とは、単純に光り輝くものではなく、光線を吸い取ってしまうようなしなやかなものであり、「翳り」をもつことでその白さが際立つものだと谷川氏は言う。
それは、「負を正とするところの屈折した美意識の産物」にほかならず、谷崎がいうところの「闇の理法」だというのだ。
アコヤ真珠が醸し出す白さや輝きにも相通ずるものがあるのではないだろうか。
アコヤ真珠の美しさの本質でもあり、最大の魅力はそのテリと言われているが、真珠のテリは単純な表面の光沢ではなく、内部に吸収された光が真珠層でおこす干渉現象による。そしてアコヤ真珠の美しさは、外面の輝きと内部から滲み出す光が複雑に混ざり合うことで生まれてきている。つまりアコヤ真珠の輝きや色合いは、その内部に宿す「翳り」に起因しているのだ。
(コラム参照:『真珠(パール)のテリは、光沢とは異なった現象です!』)
もちろん貝も真珠も、人間の美意識などには関わりなく人間というものが生まれる太古の昔より自然の摂理に従い生み出されてきているのだが、少なくとも日本人の美意識が存在していなかったり、異なるものであったならば、今日のように真珠を愛好することも、また日本において今のような産業として発展することもなかったのではないだろうか。
1cmにも満たない粒の一つ一つに日本人の美意識が流れている、そんな見方もまた真珠の愉しみではないだろうか。