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ザビエルの日本上陸!
日本でもイエズス会は真珠の産地を拠点にした!
1949年8月、ザビエルはアンジローという日本人やコスメ・デ・トーレスト共に鹿児島に上陸しました。平戸、山口、京都などに行った後、1551年に離日しました。後を託されたトーレスは、長崎県西彼杵島の横瀬浦に拠点を置きました。彼杵は「肥前国風土記」にも歌われた真珠の備わった土地であり、真珠の大産地の木村湾を擁していました。つまり、日本でもイエズス会が拠点にしたのは、真珠の産地だったのです。これは意図的だったのか、それとも偶然だったのでしょうか。少々気になることですね。
狙われた日本の真珠(パール)産地は、幸いヨーロッパ人が忘れることとなった!
スペインとポルトガルの激しいオリエント到達競争で、当初の目的だった日本の真珠の産地に到達したのはポルトガルだったのです。しかし、日本では豊臣秀吉が1587年にパテレン追放令を公布します。江戸時代になると、鎖国が始まりました。ありがたいことに、日本の真珠の産地はヨーロッパ人から忘れられることになりました。
真珠産地を支配したヨーロッパでは、その真珠をどのように使用していたのでしょう?
大航海時代、ヨーロッパ人は新世界の真珠と旧世界の真珠を支配するようになりました。ベネズエラやパナマの真珠はセビージャに送られ、バハレーン島、インド、セイロン島の真珠はリスボンに送られました。こうした真珠はヨーロッパではどのように使用されえていたのでしょう・・・・
エリザベス一世のアルマダ・ポートレートを見ていきましょう
アルマダ・ポートレートは1588年にイギリス艦隊がアルマダと呼ばれたスペインの、無敵艦隊を撃破したことを記念して描かれたもので、三つの作品が知られています。ジョージ・ガワーという画家が1588-89年頃に描いたものです。
エリザベス女王の斬新で奇抜な真珠(パール)の着こなしとは!?
エリザベス女王は、大粒のドロップ型真珠を並べるように髪に飾り、首を絞めるようにラフ(レースの襟)をつけ、その下に六連の大粒真珠のネックレスを着けています。真珠といえば品よく美しいものですが、使い方次第では、奇抜ないでたちになることも示していますね。当時、大量の真珠がヨーロッパに入ったことを示しています。
女王の身に着けていたものはパマナクロチョウ真珠だったのか!?
ドロップ型真珠や大粒真珠は、カラーで見ると、灰色や鉛色で描かれています。おそらくパナマチョウ黒蝶(クロチョウ)真珠だったのでしょう。実際、女王の右手は、地球儀のパナマ地峡あたりに置かれていました。その地域こそが大粒で灰色の真珠の産地であり、ポトシの銀がはこばれてくるところでした。肖像画はその地をほのめかしているとも思われています。
史上もっとも真珠(パール)が好きだったエリザベス女王!
当時に人も目を見張ったようです。ドン・ビルヒニオ・オルシーニというイタリア貴族は、女王はすべて白で装い、過剰なほどの真珠を身に着け、刺繍をほどこし、ダイヤモンドもつけていましたが、どうしてそれだけたくさんつけていられるのかびっくりしたと述べているそうです。
史上もっとも真珠が好きだった人物のひとりと見なされています。
(参考文献:真珠の世界史 富と野望の五千年 中公新書)
銀座WATATSUMIの黒蝶真珠についてはこちらにご紹介しております