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真珠に命をかけた日本人 目玉が飛び出しても真珠を採取した!?
養殖真珠が出回る以前、真珠は潜水夫と呼ばれる人たちが、
海に潜り採取していました。
深い海は危険が伴うため、浅い海域で採取していましたが、
たちまち真珠の貝を採りつくし、次第に深い海へと向かうようになりました。
真珠を採取するため、日本から遠く離れた海の底で
多くの日本人が働いていたことを知っていますか?
命がけで真珠を採取した日本人の姿をご紹介します。
海底は危険だらけ。それでも真珠を採取し続ける日本人
1860年代からオーストラリアでは真珠採取が行われるようになりました。
潜水夫としてマレー人、フィリピン人、太平洋の島人たちが雇用されていました。
1883年、オーストラリアの船長が来日し、日本人を採用しました。
当時、日本の沿岸漁業は不振をきわめ、漁民は生活に困窮していました。
そのため、高給な潜水夫の仕事は漁民にとってとても魅力的であったのです。
1900年代初めにオーストラリアには約3000人もの日本人が潜水夫として働いていました。
日本人がオーストラリアに渡った頃、潜水服や潜水ヘルメットが導入されており、
長時間深く潜れるように、ヘルメットは船上から空気が送られる仕組みとなっていました。
そして、潜水夫は、太陽が出ている限り、深くて冷たい海の底で真珠貝を集めていました。
そのなかで、潜水夫たちは、「空気が無事に送られてくるかどうか」
「サメが横を通り過ぎていく気持ち悪さ」
「潜水病への不安」等の恐怖と闘いながら、真珠を採取していました。
潜水病とは水圧によって血液循環障害や脳障害などが起こる病気で、
潜水病にかかった場合、すぐに死んでしまうか、
半身不随になる可能性が高い、とても危険な病気です。
また、海底の奥底まで真珠を採取しに行くため、
目の玉が3~4センチも飛び出すこともあり、
その場合には静かに目玉を眼孔に押し戻していた、ということもあったそうです。
そして、そのような過酷な状況下の中で働く潜水夫は、概して短命でした。
太平洋戦争が勃発すると、オーストラリアにいた日本人は収容所に入れられ、
戦後ほとんどの日本人が強制帰国させられました。
しかしながら、約1500人もの日本人潜水夫は帰国することを果たせず、
異国で客死したことが分かっています。
日本人の潜水夫たちが、命がけで採取した真珠たち。
真珠には、美しさの中に悲しくも過酷な物語が詰まっているのです。
(参照文献:真珠の世界史 富と野望の五千年/中公新書)