column
ペルシア王国とインドは真珠の王国だった!
真珠への愛好は古代メソポタミアの歴代の王朝へ引き継がれる
シュメル文明が滅亡した後も、真珠に対する愛好家は古代メソポタミアの歴代の王朝に引き継がれていきました。アッシリア帝国や新バビロニアの遺跡などからも、真珠がついた金製イヤリングやまとまた数の真珠などが出土しています。
メソポタミア時代の真珠が200個以上発見されている!
前6世紀になるとアケメネス朝ペルシアがメソポタミアの覇者となったのです。彼らの都はペルセポリスでしたが、イラン南西部のスーサも重要な都市でした。このスーサから前350年頃の真珠のネックレスが発見されています。女性の遺骨が納められた棺から出土したもので、三連タイプのネックレスでした。発見時にはかなりの粉状態でしたが、今でもかなりの200個以上の真珠が残っているそうです。
メソポタミアの人々は早くから真珠で身を着飾っていた
発見されたネックレスには、5ミリのディスク模様の黄金製飾りも使われておりました。これと比較すると真珠の大きさは3~5ミリくらいで、真珠はアコヤ真珠であったと思われています。古代メソポタミアの人々は、アラビア湾の真珠の産地に近いことから、真珠のネックレスやイヤリングにて身を飾ることを早くから育んでいたのですね。
オリエントのもうひとつの真珠の産地、南インドについてご紹介します。
千七百年もインドの真珠の産地を支配したパーンディア朝
南インドの東南側には、真珠の王国と呼ぶにふさわしいパーンディヤ朝が栄えていました。前四世紀から14世紀まで存続していたそうです。途中、国連が衰退した時期もありましたが、千七百年にわたって、インドの真珠の産地を支配したタミル人の王国でした。
マナール湾に生息する、白く美しいアコヤ貝
真珠の産地はマンナール湾で、この海にはインドアコヤガイが生息し、白くて美しい真珠を生み出していたそうです。海は深くありませでしたが、サメなどの大魚が多い危険な海でした。
1世紀のギリシャ語文献によると、インド最南端から東南部にかけてパーンディア王が所有する真珠採取場があり、罪人たちがその仕事にあたっていたそうです。インドの真珠採取では潜水夫が大魚に襲われることがよくあることから、罪人が使役されていたのかもしれないそうです。
真珠はパーンディア朝の莫大な収入源だった!
一般に古代インドの諸王朝は、真珠や宝石は王に献上されるべきものとして、輸出禁止品にされていることが多かったのですが、パーンディア朝あみずから真珠採取場を経営し、真珠を王国の輸出品にしていました。真珠はパーンディア朝の莫大な収入源だったのです。
タミル人の王国から贅沢品がインド各地にもたらされていたのです
南インドの西南側にはコショウを特産品とするタミル人の王国、チューラ朝があります。その貿易港はムージリスだったのです。ムージリスやネルキュンダの港にはコショウ、真珠、透明石、鼈甲、サンゴ、綿織物などの贅沢品があり、ここからインド各地にもたらされていました。
(参考文献: 真珠の世界史 富と野望の五千年 中公新書)