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マルコポーロが語った日本真珠とは?!
遣唐使の朝貢品についての議論には真珠(パール)は登場しませんでした。
「延喜式」には唐の皇帝などへの朝貢品一覧が記されています。そこでは、銀、絹織物、黄糸、麻布、出火水精、瑪瑙、海石榴油、雨葛汁などがあげられていますが、真珠は入っていません。八世紀半ばに陸奥で金が発見され、遣唐使が砂金をもっていくのも名高い話となりました。
多くの学者は、「延喜式」の朝貢品一覧の記述や砂金を重視するあまり、真珠が重要な朝貢品のひとつだったと考えることはほとんどなかったのですね。東野治之の「遣唐使船」などが指摘するぐらいだったのです。
真珠は日本の重要はな輸出品だった!
中国側の史料では事情が異なってきます。11世紀前半に成立した宋代の勅撰書の「冊府元亀」には「開成三年12月日本国遣使貢進真珠絹」と記されている。中国の開成三年は西暦838年で、承和の遣唐使が入唐し、皇帝に喝見した年です。遣唐使たちは真珠も献上してたのです。真珠は日本の重要な輸出品だったのです。
平安時代は、鮮やかな装いと香に熱中して、真珠への関心は失われ・・
平安時代になると、中央に暮らす貴族たちは、真珠への関心を急速に失っていきました。源氏物語では、真珠はでてきません。その理由のひとつとして、平安時代の人々が、装身具よりも着物の色合わせや香などに熱中するようになったからと考えられています。日本人は世界でも珍しい、真珠や宝石、装身具に無頓着な民族になっていきました。
真珠は外交に使われていた。
けれど、真珠の産地の人々は真珠が外国との交易品になることを認識していました。明治時代の外務省が編纂した「外交志稿」などでは、11世紀から12世紀、津島や薩摩の人は真珠や水銀、牛馬などと引き換えに高麗と貿易を行っていました。
ばら色の真珠としろ色の真珠!
13世紀のマルコポーロの東方見聞録も日本の真珠のことを語っています。日本について、チバングの住民は、肌が白く礼節の正しい優雅なぐう遇像教徒であること、住民が莫大な金を所有していることを述べ、次のように続けています。
「この国には多量に真珠が産する。ばら色をした円い大型の、とても美しい真珠である。ばら色真珠の価値は、白色真珠に勝るとも劣らない。この国では、土葬と火葬が並び行われていているが、土葬に際しては、その富の真相はとても筆舌には尽くせない」
ばら色の大型真珠は、琵琶湖のイケチョウガイの淡水真珠かもしれません。白色真珠は、アコヤ貝のことでしょう。真珠を死者の口に含ませる飯盒の風習も語られていますが、太安万侶の墓には真珠が副葬されていました。
マルコポーロの記述は意外と正確だったのですね!
彼は、フビライ・ハーンの宮廷の中国人から情報を得たのでしょう。中国人の間では、日本の真珠はよく知られていたのですね。
アラビア湾、南インドに次ぐ真珠の産地は日本となる!
マルコポーロの記述の意義は、ヨーロッパ人の認識に日本という真珠の産地を加えたことでした。真珠の産地はアラビア湾と南インドでした。ヨーロッパ人は中国南部の真珠の産地にはほとんど気づいていませんでした。マルコポーロの報告によって、日本が大三の真珠の産地になったのです。
南米ベネズエラでアコヤ真珠の大産地を発見した、クリストファーコロンブスの出現!
1942年には、マルコポーロの東方見聞録を愛読する渡航者が現れます。日本に真珠と黄金を目指して、出航し、南米ベネズエラでアコヤ真珠の大量産地を発見し、ベネズエラを略奪と殺戮のぶたいにしたクリストファーコロンブスでした。
アコヤ本真珠のご紹介はこちら。
(参考文献:真珠の世界史 中公新書)