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長崎の彼杵は真珠の一大産地だった!
奈良時代の真珠の産地について。
「万葉集」には、七世紀から八世紀の歌が収められていますが、白玉の産地を詠んだ歌は意外と多いのです。
水に漬かった白玉があると歌われたのは、筑紫と近江で、万葉人は九州の真珠と琵琶湖の淡水真珠を知っていました。
海人が潜ってシラタマを集めていたのは、奈呉の海(富山湾)だったのです。
伊勢や紀伊、淡路島や珠洲(能登半島)ではアワビの真珠を採ったという歌があります。紀伊の国や玉の裏(岡山県)では白玉を拾うという句があるが、ハマグリなどの「貝の玉」の可能性もあるのですよ。
真珠の産地として・・
そうした中、真珠の産地として、当時全国に鳴り響いていたのが長崎の「彼杵郡(そのきのこおり)」です。「肥前国風土記」は、732年から740年の間に編纂された長崎県の一部と佐賀県の一部の風土記ですが、彼杵郡について次のような地名の由来があります。
美しい玉は彼杵郡の土蜘蛛と呼ばれる豪族たちから景行天皇の手へ渡り・・・
彼杵郡には、土蜘蛛と呼ばれる豪族たちが暮らしており、景行天皇は家臣を派遣して、彼らを捕らえさせ、かれらから「木蓮子玉」、「白玉」、「美しき玉」を奪いました!
こうして「三色の玉」を得た天皇は、この国は玉が備わった国であると思い、「具足王国(そないだまのくに)」と呼ぶように命じました。
「肥前国風土記」は、「彼杵郡」と呼ぶのは訛っているからだったようですね。
木蓮子玉はアワビ真珠、白珠はアコヤ真珠、美しき玉は黄色、それは三色の珠。
彼杵とは大村湾の沿岸地域のことで、西彼杵半島とか東彼杵半島として地名が残っています。景行天皇が彼杵で奪った「木蓮子玉」はイタビカズラの黒い実のような玉のことで、おそらくアワビ真珠でしょう。「白珠」はアコヤ真珠です。「美しき玉」の色は不明ですが、もし黄色のアコヤ真珠とすると、黒、白、黄となり、「三色の玉」となります。大村湾は、日本で一、二を争う真珠の大産地だったのです。その名声は8世紀にすでに鳴り響いていたのですね。
平安時代は、津島と志摩国が真珠の産地!
平安時代になると、津島と志摩国(三重県)も名高い真珠の産地となっていました。10世紀の法律規定集の「延喜式」は、中央の皇族や貴族の使人が津島にわたって、私的に真珠を買い付けることを禁じ、志摩国には白玉千丸を税として課していたそうです。
志摩の縄文貝塚からはアコヤガイの出土報告はありませんでしたが、10世紀になると志摩地方は真珠の産地となりました。
アコヤ真珠ご紹介はこちら。
(参考文献: 真珠の世界史 中公新書)