column
真珠を飲む!?江戸時代の真珠の価値とは!?
江戸時代になると、日本は再び伴天連追放令を出し、鎖国政策をとるようになりました。
しかし、日本と交易をしている中国人、オランダ人は日本の真珠を密かに狙っていました。
江戸時代、真珠は日本人にとってどのような存在であったのでしょうか。
知る人ぞ知る江戸時代の真珠の商い
江戸時代前半の真珠の産地は大村湾、鹿児島湾、英虞湾でした。
長崎出島に来日したドイツ人で、オランダ商館付の医師エンゲル・ベルト・ケンペルは「日本誌」のなかで、真珠貝はアコヤガイといわれ、ペルシアの真珠貝と似ている、アコヤ真珠は薩摩の近海と大村湾でしか採れない、薩摩では琉球の品人に売っているらしい、大村では毎年3000両シナ人に売っている、と述べているそうです。
また、1713年の英虞軍の郷土史料「志陽略志」には、真珠は華人が求める宝ゆえ、海女に探させ、とれた真珠は必ず肥前長崎に送っていると記されているそうです。
日本人が真珠の価値をあまり知らない時代にも、真珠は産地の人の中で知る人ぞ知るという形で海外に輸出されていました。
真珠を薬として飲んでいた日本人
江戸時代は、アコヤガイのケシ真珠が薬として使われるようになった時代でした。
そのきっかけとなったのが、中国の薬物研究書の「本草網目」に記された真珠に関しての記事でした。それによると真珠は、粉にして用いれば、心を静め、目をはっきりさせ、肌にうるおいを与え、天然痘を解毒する効果のあることが記されていたそうです。
この「本草網目」の影響は大きく、日本でも江戸時代に本草学が盛んになり、それにともなって薬用真珠の概念が普及していきました。
こうして薬として真珠の需要が出てくると、伊勢や尾張、土佐の浦ノ内湾や能登の七尾湾などでもアコヤ真珠が採取されるようになっていきました。
宝石として使えるアコヤのケシ真珠をすりつぶし、江戸時代の日本人は薬として服用していたのです。
(参照文献:真珠の世界史