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日本最古の真珠はあの女帝が身に付けていたかも!?



2015.09.21



美しく輝く真珠。

真珠って気品があって、凛とした雰囲気がとても素敵な宝石です。

女性なら一度は身に付けたことがある宝石の一つなのではないでしょうか。

そんな身近な存在の真珠、はるか昔の邪馬台国の時代から、
高価な宝石、且つ、貴重な交易品として扱われていたのをご存じですか?

 

実は、日本の真珠について最初に述べたのが、あの有名な「魏志倭人伝」なのです。

その魏志倭人伝に「真珠」、そして真珠と同じ意味だと思われる「白珠」という語彙が合計三回登場します。

 

 

「倭の国(日本)の特産物として注目された真珠(パール)」

 

一番目は、倭の国(日本)の特産物について、冒頭に「真珠と青玉を出だす」と記載されているそうです。

多くの特産物が列挙されている中、冒頭に「真珠」と記載されています。

沢山ある倭国の特産物の中でも、一番最初に真珠を記載するなんて、
それだけ中国の方々が日本の真珠に注目をしていたんですね。

 

 

「魏の皇帝が卑弥呼にメロメロ!?卑弥呼へ真珠をプレゼント」

 

二番目は、中国の魏の皇帝が卑弥呼に真珠50斤(約11㎏)を与えた、と書かれているそうです。

なぜ、魏の皇帝が卑弥呼に11㎏もの真珠を与えたのか・・・。

それは、「卑弥呼が献上した男女の奴隷と斑織りの布の朝貢品を、魏の皇帝はたいそう喜び、
そのお礼として真珠や鉛舟、銅鏡等を贈った」と魏志倭人伝に記載があるそうです。

(※諸説あり)

魏の皇帝から倭の女王へ真珠が贈られるなんて、とてもロマンチックですね。
しかも11㎏!卑弥呼はその真珠をどう使ったのか、興味深いですね。

 

 

「その数5000個!!圧倒的な真珠(パール)の量で忠誠心を表現した倭国」

 

三番目は、卑弥呼の後を継いだ壱与が使節を中国に送った際に、
白珠5000孔(真珠5000個)を献上した、と書かれているそうです。

壱与は真珠が中国で好まれることを認識したうえで、
外交上の一つのツールとして真珠を使用していたのです。

(※諸説あり)

 

魏志倭人伝以降、中国の正史で「真珠と青玉を出だす」という文言は
繰り返されることになったそうです。

中国人は倭国の特産品である「真珠」に期待していたことが伝わってきますね。

 

中国の歴史書から見えてきた倭国の「真珠」。

真珠は太古の昔、日本の特産品であり、最古の輸出品であったことが分かります。

 

数千年前から人々を魅了してきた真珠。
今も昔も変わらぬ輝きがそこにはあるように感じました。

(参照文献:真珠の世界史 富と野望の五千年/中公新書)





フランシスコ・ザビエルは真珠と深い関係があった!?日本上陸の本当の目的とは!?



2015.09.21



フランシスコ・ザビエルと言えば、歴史の授業などでその名を聞いたことがあるはず。

肖像画もなかなかのインパクトがありますよね。

そのフランシスコ・ザビエル。実は真珠と深い関係があるのです。

 

 

フランシスコ・ザビエルの任務の一つは信者に真珠を採らせることだった!?

 

南インド東南側は、真珠の産地として有名な地の一つでした。
そして、その地には、真珠採りを得意とする民が住んでいました。
この真珠採りの民を支配下に置こうと、ヒンドゥー教徒の諸王や
イスラームの教徒たちが侵略を始めました。

その頃に現れたのが、ポルトガル人でした。

ポルトガル人はその民のことを「パラワス人」と呼び、
パラワス人が暮らす南インド東南側の海岸を漁夫海岸と呼びました。
そして、1520年代になると、ポルトガル人がこの漁夫海岸を支配するようになりました。
ポルトガル人は、パラワス人の集団改宗も実施し、彼らから真珠採取税を取るようになりました。
しかし、規律が乱れ始めたため、再度パラワス人を信仰に導く必要が出てきました。

 

そこでインドに派遣されたのが、フランシスコ・ザビエルだったのです。

 

フランシスコ・ザビエルは、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で
インドのゴアに派遣され、コモリン岬からトゥティコリンにいたる漁夫海岸で
布教活動に乗り出していきました。

彼は非常に精力的で、1か月で1万人の漁夫(パラワス人)を
改宗させたこともあったそうです。

また、フランシスコ・ザビエルのもう一つの任務は、
規律を正し「パラワス人にきちんと真珠採りをさせること」だったのです。

そして布教活動を通じ、
「カトリック教徒の潜水夫を作り出す」
という目的ももっていたのです。

1552年ごろには、南インドの漁夫海岸と西南側の海岸で
5万人程度のカトリック信者がいたと考えられており、
過酷な労働条件の下、真珠採りをさせられていたようです。

 

ザビエル日本上陸。日本人と真珠はどうなってしまうのか・・・!?

1549年8月、ザビエルはアンジローという日本人や
コスメ・デ・トーレスともに鹿児島に上陸しました。
日本各地を回った後、1551年に離日。

後を託されたトーレスは長崎県西彼杵半島の横瀬浦に拠点を置きました。
彼杵は、真珠の備わった土地であり、真珠の大産地の大村湾を擁していました。

つまり日本でも、イエズス会が拠点にしたのは真珠の産地であったのです。

このまま日本の真珠はインドのように支配されてしまうのか・・・。

 

しかし、ここで日本の運命は大きく変わります。

 

日本では豊臣秀吉が1589年に伴天連追放令を公布。

江戸時代になると、鎖国が始まりました。

日本の真珠の産地はヨーロッパ人から忘れられることになったのです。

 

(参照文献:真珠の世界史 富と野望の五千年/中公新書)

 





あの有名な絵画の真珠は偽物!?フェルメールの真珠ミステリー



2015.09.21



フェルメールの最も有名な作品の一つに、
北欧のモナリザと称される傑作
「真珠の耳飾りの少女」(別名:「青いターバンの娘」)があります。
この「真珠の耳飾りの少女」、謎を秘めている作品と言われています。

 

有名な謎の一つに「この少女は一体誰を描いたのか?」というものがあります。
フェルメールの娘のひとりを描いたものとする説や、
理想化された人物であるとする説、諸説唱えられています。
そして未だ、そのモデルは一体誰なのか明確になっていません。

 

では、このフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を巡る、
もう一つのミステリーを紹介しましょう。

 

 

真珠の耳飾りの少女がつけていた真珠は一体なんなのか・・・??

 

フェルメールが活躍した1650年~70年頃、オランダの上流階級の間では、
真珠を使った宝飾品が流行していました。
そして、オランダ人画家フェルメールは、その作品の中でアコヤ真珠と思われる
真珠のネックレスを付けた人々の嬉しそうな姿の絵を何枚も描いています。

 

「真珠の耳飾りの少女」は1665年もしくは1666年頃に描かれたと推定されています。
あどけない少女が身に着けているのは、シルバーがかった円形の美しい大型の真珠の耳飾り。

 

少女が身に着けている真珠の耳飾り、本当は本物の真珠ではなかったとしたら・・・。

 

実は、この美しい真珠の耳飾りは専門家の中で「大きすぎる」と言われています。
しかしながら、その不自然さに気が付いていても、絵画の絶大な人気のため
模造品ではないかと声高に言えない状況であったのです。

 

この疑惑の真珠を巡るミステリーに、一つの光が見えてきます。

 

2012年、この世界的名画「真珠の耳飾りの少女」が来日しました。

その展覧会の図録で、真珠は並外れて大きい、
ガラスにニスを塗った模造真珠かもしれないし、
フェルメールの想像力によるものかもしれない、と
真珠が本物ではない可能性を指摘したのです。

実は、真珠史の中で模造真珠のことが1656年頃に出てきているのです。

パリのジャカンという人物が、魚の鱗の銀白色の物質をガラス玉の内面に塗り、
精巧な模造真珠を作ったという、とても有名な話があるそうです。

その時期は、「真珠の耳飾りの少女」の制作時期と近しいため、
時期的にも符合するといえます。

 

模造といってしまうと聞こえは悪いですが、
当時、模造真珠を付けるのは最新ファッションであったそうです。

 

少女が着けていたのは本物の真珠なのか、それとも模造真珠なのか・・・。

世界的名画を巡る真珠のミステリー。

 

真相は描いた本人のみぞ知る・・・・。

 

 

(参照文献:真珠の世界史 富と野望の五千年/中公新書)

 





真珠に命をかけた日本人 目玉が飛び出しても真珠を採取した!?



2015.09.21



養殖真珠が出回る以前、真珠は潜水夫と呼ばれる人たちが、
海に潜り採取していました。

深い海は危険が伴うため、浅い海域で採取していましたが、
たちまち真珠の貝を採りつくし、次第に深い海へと向かうようになりました。

 

真珠を採取するため、日本から遠く離れた海の底で
多くの日本人が働いていたことを知っていますか?

 

命がけで真珠を採取した日本人の姿をご紹介します。

 

海底は危険だらけ。それでも真珠を採取し続ける日本人

 

1860年代からオーストラリアでは真珠採取が行われるようになりました。

潜水夫としてマレー人、フィリピン人、太平洋の島人たちが雇用されていました。

 

1883年、オーストラリアの船長が来日し、日本人を採用しました。

当時、日本の沿岸漁業は不振をきわめ、漁民は生活に困窮していました。

そのため、高給な潜水夫の仕事は漁民にとってとても魅力的であったのです。

 

1900年代初めにオーストラリアには約3000人もの日本人が潜水夫として働いていました。

 

日本人がオーストラリアに渡った頃、潜水服や潜水ヘルメットが導入されており、
長時間深く潜れるように、ヘルメットは船上から空気が送られる仕組みとなっていました。

 

そして、潜水夫は、太陽が出ている限り、深くて冷たい海の底で真珠貝を集めていました。

 

そのなかで、潜水夫たちは、「空気が無事に送られてくるかどうか」
「サメが横を通り過ぎていく気持ち悪さ」
「潜水病への不安」等の恐怖と闘いながら、真珠を採取していました。

 

潜水病とは水圧によって血液循環障害や脳障害などが起こる病気で、
潜水病にかかった場合、すぐに死んでしまうか、
半身不随になる可能性が高い、とても危険な病気です。

 

また、海底の奥底まで真珠を採取しに行くため、
目の玉が3~4センチも飛び出すこともあり、
その場合には静かに目玉を眼孔に押し戻していた、ということもあったそうです。

 

そして、そのような過酷な状況下の中で働く潜水夫は、概して短命でした。

 

太平洋戦争が勃発すると、オーストラリアにいた日本人は収容所に入れられ、
戦後ほとんどの日本人が強制帰国させられました。

しかしながら、約1500人もの日本人潜水夫は帰国することを果たせず、
異国で客死したことが分かっています。

 

日本人の潜水夫たちが、命がけで採取した真珠たち。

真珠には、美しさの中に悲しくも過酷な物語が詰まっているのです。

 

(参照文献:真珠の世界史 富と野望の五千年/中公新書)







 

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